水郷の名残


門真は府下有数の低湿地帯で、昔から水害に悩まされてきました。門真の歴史は水害の歴史です。大雨や満潮によって増水し逆流する淀川の水から田畑を守るためには、いろんな工夫が考えられました。

今、なみはやドームのある三ツ島あたりでは、輪中(わじゅう)と呼んで、堤防で水田が囲まれました。蔵は石組みで高くした段蔵(だんぐら)があっちこっちに見られました。 ひと昔前の門真の特産品といえば蓮根が有名でした。原産地がインドとされる蓮(ハス)は太古の昔からあったんですが、門真蓮根の歴史はそんなに古くはありません。

もともとの河内の地蓮(じばす)は、質はいいんだけど細くて市場で売れるようなものではなかったんですが、北島村の方が大正時代に、加賀の蓮と備前の蓮を交配させて新種の蓮を作りました。それが門真蓮根で、市場でも大変評判となったんです。

昭和になってからは門真の蓮根作付け面積は、大阪府下の9割以上を占めるようになりました。しかし戦後はその蓮畑もほとんど見られなくなってしまいました。今でも門真蓮根というのは売ってますけど値段が高くて、なかなか我々の口には入りません(笑)。

蓮畑の中を細い水路が網の目のようにめぐらされ、蓮根の収穫には「田舟」と呼ばれる四角い舟が使われましたが、水路の高低差を解消するためには「バッタリ」という仕掛けが作られました。パナマ運河方式のミニ版ですわ(笑)。

昔は水路の水もきれいでね、水路沿いの民家は「ひなだ」と呼ばれる洗い場を作り、お米をといだり、洗濯をしたりしてました。時には三枚板(さんまいいた)と呼ばれる農作業用の小舟の船着き場にも利用されてたようです。

  お話 門真市立歴史資料館 林一朗さん
         『あるっく』より抜粋

  現在の水害対策について


 西三荘遺跡 〜 歴史の出発点

 門真市の西端に近い大字門真一〇四八番地の西三荘遺跡で、平成元年(一九八九)3月に縄文土器片が2点発掘されました。
 縄文土器はいずれも縄文時代後期(約三千五百年前)のもので、市内で初めての出土です。
 この土器がつかわれていた頃の大阪には「河内湾」があり、門真市域は水域と考えられていました。
 しかしこの土器の出土により、すでに一部に期節的な陸地が現われており、縄文人が貝や魚、水鳥などを求めて、この地を訪れていたと考えられます。
 縄文人の生活の跡は今後の調査をまたなければなりませんが、現在のところ、ここが門真の歴史の出発点となっています。

     宇治原 靖泰さん (市史編さん課)

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